恋とはなんでしょう?

大槻ケンヂ 「神菜、頭をよくしてあげよう」

「恋とはなんでしょう?」
恋?わかりません。そりゃジャズより難解だ。
 
(中略)
 
相手を、自分だけのものにしておきたいと思う心が恋か?
 
いや、それは所有欲だろう。
 
相手を、抱きしめたいと願うのは恋か?
 
いや、それは性欲であろう。
 
相手を、つなぎとめておきたいと考えるのは恋か?
 
いやいや、それは自然の摂理に反している。
万物は無常であり、行く川の水は流れ元の水にはあらぬのだ。
人の心もまた無常から逃れることはできない。
どんなに好きと思う気持ちがあっても、そのうち冷える。型を変え嫌悪にも変わり得る。
 
一瞬のときめきを永遠の炎と思い込む勘違いこそが恋と呼ばれる幻であるのかもしれない。
 
恋を、たかだかイベントぐらいにしか考えていないものだから、やはり女性は去って行く。
 
私はよく、ふられる。あんまり気にしない。人の心は変わっていくものだ。私の方から去って行くことだって多い。
 
執着は人間の根本の苦しみであるとお釈迦様も言っていた。相手なんか探せばいくらでもいるだろう。
 
何より、こう思えば失恋はふっ切れる。
「でも、やれたからいいか」
魔法の言葉であると思う。男も女も、失恋の痛みと相手への執着から逃れようという時には、「でもやれたからいいか」とつぶやいてみたらいい。
 
本当にそうではないか。セックスという高みに一度でも相手と上ることができたなら、そこに至るまでの過程で充分にドラマを人は経験しているのだ。そこから先の道を二人が作れなかったのなら、キッパリと二人はそこまでということだ。別れは、賢明なアイデアだ。正解だ。いさぎよさこそが離れ行く二人の背景にエンドマークを浮かび上がらせてくれる。そして、「でもやれたからいいか」とつぶやける度量があれば、ストーカーなどになることもない。
 
「で、でも、まだやってねーんだよーっ!!」と、お嘆きの方々もあろう。
 
そういう場合は、二人の関係性の頂点と思える段階を、「やれたから」の部分に置き換えてみるとよい。
 
「でも、抱き合えたからいいか」
 
そこまでも到っていないとしたら、また入れ替えてみたらいい。
 
「でも、キスしたからいいか」
「でも、手をつなげたからいいか」
「でも、ドライブに行けたからいいか」
「でも、映画を観たからいいか」
「でも、一緒にお酒を飲めたからいいか」
「でも、告白できたからいいか」
「でも、声をかけられたからいいか」
「でも、目と目が合ったからいいか」
「でも、出会えたのだからいいか」
「でも、そこにいてくれたのだからいいか」
「でも、生まれたきてくれたのだからいいか」
 
意外にこうして見ると、恋は、始まらなかった時の方が、より相手に対して、慈愛の心でいてあげられたようにも思える。
 
どうしても相手に対しての執着を捨てることのできない人は、まだ二人の恋が、始まらなかった頃の気持ちをゆっくりと思い出してみたらいい。
 
「でも、元気でいてくれればいいか」
 
確かに心からそう願っていたことを、思い出すはずだ。
始まる前も終わった後も、相手の幸福のみを願う。
恋とは、そういうものであるのかもしれない。
わかんないけど。

 

神菜、頭をよくしてあげよう

神菜、頭をよくしてあげよう