ぼくらの

命の価値はみんないっしょなんてことはあり得ないわ。
大局的に見ればそうだとは思うけど、
人間が個人感情を持つ以上個人の視点では等価にならない。
それでも一緒と言える人は自分の命のことは別にしてるのね。
命が大切というのは全くその通りだと思う。
でも、その大切さには順番がつく。
イルカの死を悲しんでも家畜の豚の死にいちち涙を流す人はいない。
それは、そこに順番をつけているからよね。
だから知人の死と他人の死
どちらかを選択しなくてはいけなくなったら、私は迷わず他人の死を選ぶ。
逆説的だけど生物は所詮ホロン*1として全体として存在するものでしょう。
 
2人のうちどちらかが生き残っても全体としてたいした違いは生じない。
それは切江君の言うとおり。
切江君は自分と誰かとどちらかが死ななければならないとしたら、
自分の死を選ぶわけでしょう。
その価値観は、当然、身内にも適用される。
切江君のそのやさしい気持ちはわかるよ。
でもそれは切江君の考えるようなことを
わからない、理解しようとしない人達への反動から出ている感じがするの。
私の意見は表面的にはそういう切江君の嫌いな人達と同じなんだけど
ちょっとちがうのよ。
私達は、生きながらにして、生命に対して業と責任を背負っているの。
他者の命の可能性を摘み取らずに生きていける人はいないわ。
植物を食べ、動物を食らう。
キリストもおシャカ様もそれは同じ、他の生命の上に成り立っている。
安易な生命賛美をする前に、そういうことに向き合わないと。
 
特に今は、次の日に、生きていることが簡単になりすぎて
みんな忘れている。
豚を食べる、ということがどういうことか。
命の重さはいっしょと言いながら、自分が日々生きている中で、
どれだけの命が消費されているか。
それは他種の生物の命に限らず、同種の人間に対してでも言えることよ。
自分が生きていることによって、他の誰かが死んでいるかもしれない可能性。
切江君なら考えれば、わかるわね。
本当は、大人がちゃんとそういうことを語るべきなんだと思うけれど
みんな我が身かわいさに、そういうことは言わないから。
あなたがここにあるのは、あなたとあなたの祖先が
たくさんの生命の上に成り立っているから。
それが生きているものが生まれながらに背負っている業。
私は命を軽んじているわけじゃないのよ。
もちろん、無益な殺生はいけないことだと思う。
でも自らと自らの身内の生存のための殺生は
闇雲に卑下されるものではないと思う。だからこそ
私達はその犠牲になってきた命の分までしっかり生きなくてはいけない。
それが生きているものの責任。
自分の命は自分だけのものではないのよ。
自分の命を支えてきてくれた無数の生命達の姿でもあるの。
あなたは、好むと好まざるとにかかわらずもうすでに生命の犠牲の上にある。
だから、そのことに感謝して、その犠牲の上にある自分を有効に使いなさい。
この業と責任は、生まれた時から、避けることは出来ないから

 
 

ぼくらの 6 (IKKI COMIX)

ぼくらの 6 (IKKI COMIX)

*1:部分でありながら、全体の構成に関わる機能、性質をもち、それぞれが全体と調和して機能する単位